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大王松(だいおうしょう)、北米に自生する松。マツ科の中で一番大きくなるが、その分土地が必要となり、日本ではあまり植えられていない。近所の旧家が公園になっていて、そこで僕は初めてこの松と出会った。付近には赤松・黒松などのマツ科の高木もあるが、この大王松には高さで敵わない。勿論樹木はお互いに高さを競い合っているわけではない。高さを求めたのは、大王松の生存をかけて選択した戦略の一つなのだ。
堂々とした、見る者を圧倒させる姿は、巨木に対する僕の畏れを呼び起こすには十分過ぎる。ここまで育つのにどのくらいの時間を有したのだろうか。巨木は巨木として自立すれば周囲の環境を独占する力を持つが、そこに至るまでの道程は厳しい。また巨木ならばこそ、必要とするエネルギー量も多いことだろう。種の存続をかけたそれぞれの戦略が時代の変化に対応できなければ滅ぶことになる。ただここまで育てば、人間が保存樹木としてある程度は管理してくれることになる。人間を利用すること、それも彼らの組み込まれた戦略の一環かと考えれば、さらに目の前に立つ大王松にあらためて驚く。
葉の形状をみるとアカシダレだと思うが間違っているかもしれない。何よりも春に紅葉する姿で思いこんでいる節も確かにある。
風の強い日だった。風を受けて大きく枝を震わせている様子は炎を連想させた。日本で園芸品種が多い樹木と言えば桜とモミジが筆頭になるのではないだろうか。春の桜、秋の紅葉。この二つの風情を季節の色として多くの日本人は愛してきた。桜が咲く頃、モミジも花を咲かせる。葉に隠れ小振りで目立たぬ花は、爛漫に咲く桜に春の季節の主役を譲り、秋の紅葉を目指す。
と、ここまで書いて「桜」と同様に「もみじ」も擬人化している自分に気が付く。
調べてみると「カエデ」と「もみじ」は植物上の違いはないようだ。盆栽上において、葉が3つに分かれているのを「カエデ」、5つに分かれているのを「もみじ」と言うそうである。「カエデ」は「蛙の手」からきているそうだ。
写真は「オオモミジ」で植物分類上は「イロハモミジ」の変種となる。葉の内側から日を伺うと、葉が透けて緑がいっそうに鮮やかになる。春のモミジもかなり美しい。
参考サイト:「カエデともみじ」(個人サイトながら内容が豊富で多岐にわたっている)
いま植物に興味を持ち始めている。特に樹木、その中でも裸子植物が面白い。今まで何気なく通り過ぎていた樹木の生い立ちが気になる。ヒマラヤスギは広く公園等で植樹されている。この写真の近くにはメタセコイアが数本植えられている。メタセコイアは落葉する針葉樹なので一見すると裸木の状態だが、枝には若葉が見え始めている。何回か写真に写したが、どうもメタセコイアの堂々とした姿が写せなく、全て破棄してしまった。イメージどおりに写せないということは、特定のイメージが僕にあるからなのだが、だからそのイメージをなくしてしまえば、ありのままのメタセコイアを見ることができるのかもしれない、とも思う。でも樹木と人間との結びつきは、僕が感じている以上に強く、それを僕に作用している。さらに樹木と人間の関係、つまり歴史を知れば知るほど僕の思いは強くなっていく。そしてそこにイメージがメタセコイア等の樹木とは関係なく造り上げられることになる。僕はそのイメージだからこそ撮りたいと思うのである。
白い花が青空の下、雲になろうと上へ上へと伸びる。
世田谷奥沢の浄真寺は九品仏として知られている。その本堂脇に都の天然記念物指定を受けているイチョウの大木がある。この時期ではわからないが、樹勢は衰えず、秋には見事に黄葉して素晴らしい眺めになる。それを考えると写真に収めた季節が悪かったかもしれない。しばし大木の前で佇む。大木・巨樹・高木と人から呼ばれるもの達の前にいると時間が過ぎるのが早い。彼らの時間は人間の時間とは次元が違うのに、早く感じるのは一体どういう事なのだろう。
イチョウの木の背景は浄真寺の本堂で釈迦如来が鎮座している。本堂の正面には3つのお堂があり、それぞれのお堂には3躯の阿弥陀如来座像が静かに座っておられる。計9躯の阿弥陀如来座像は全て同じではなく、結ばれている印の型が違う。そこから九品仏という名称が浄真寺についた。3年に一度、お面かぶりというお祭りが開催される。それは本堂(現世)と阿弥陀堂(来世)に渡り廊下を造り、阿弥陀如来のお面をかぶった人が本堂まで歩くと聞いている。前々から見たいと思ってはいるが、機会に恵まれず(忘れているだけだが)一度も拝観したことがない。次回は来年、どうなることやら。
木の肌が時として人の肌と思えるときがある。そう思える僕の感覚が少し異界に踏み込んでいるのかもしれないが、時としてそう見える。
NHKスペシャル「巨樹・生命の不思議」を観た。奥羽山脈の秘境と呼ばれる和賀山塊に在る数多くの巨樹、その中の一本のブナの巨樹を中心に映像は展開する。定点撮影での映像は素晴らしかった。そのブナの立ち姿、そして木肌をみて、人間に重ねてしまう僕がそこにいた。勿論人間と樹とでは、流れる時間も何もかもが違う、人間が樹の時間に合わせることはできない。だから樹の気持ち、そういうものが在ればの話だが、は人間にはわからないと思う。人間は樹の何かに自分を投影するだけなのだ。それでも、そうは思っても何かを感じてしまうのである。番組でナレーションは語る「巨樹は生きるのをあきらめない」と、その気持ちだけは人間も巨樹も変わりはない。
写真は家の近くの樹のコブである。この木肌に僕はおもしろさと同時に美しさも感じた。でもその時の気持ちは、感じたという感覚だけが残り、他は忘れてしまった。
草木と花の知識は全くと言っていいほどない。桃色、黄色、濃緑に点在する深紅。写真を撮ったときに知っていたのは椿くらいである。でも他のサイトで、桃色の花を咲かせる木が、たぶん「マンサク」であろうかと思った。「マンサク」であろうかという曖昧さは、その方のサイトでの花の写真と若干の違いが見受けられるからだ。でも近い関係であるのは間違いないと思う。
花の名前、草木の名前を知らずに来たことが、こういうときに悔やまれる。勿論花の名前を知ったとしても、その花のことを理解したことにはならないのではあるが、それでも人間がその花に対する思いを感じることができる。ものの名前を知ることは人間を知ることに繋がる、そういう風に思えるのである。この三色の側では、梅が満開であった。椿は満開の時期を過ぎ、地面に赤い花びらを敷き詰めている。
そういえば、家の近くの木蓮は花を咲かせ始めているのだろうか。
今度図書館で植物図鑑を借りてこよう。そして黄色い花の名前を調べるのだ。
僕はおそらく人の代わりに木を撮している。だから僕が撮した木々の写真には人の姿を感じられるものが多いことだろう。この写真は枝の伐採の行為と切り取られた後が瞳に見える二重の意味で人を感じることが出来た。
写真を「撮る」と言うことは、「取る」に繋がるように思う。何から何に取るのか。それはまずは被写体の物語を自分の物語にずらすことから始まる。写真に撮られた姿は、被写体本来の物語を語りはしない。そう見えるかもしれないが、それはあくまで僕の世界に組み込まれた物語なのだ。被写体は抵抗も対話もなく突然に自分の主体をはぎ取られる。そう取ったのは、被写体の主体なのだと僕は思う。だからこそ僕は人にカメラを向けることが出来ない。木々であれば、花であれば、猫などの動物であれば、山などの風景であれば、人とは交渉すべき術を持たないが故に、僕は彼らの世界に侵攻することが出来るのである。








