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「撮影日和」という言葉の「日和」は当然に晴天だと思っていた。ハードとしてのカメラ自体に対しては無神経な僕だが、やはり雨の日と言うだけで、それ以前に早めに帰ろうと気持ちが動いた。でも「日和」とは「至る所に青山あり」ということに近いかもしれない。雨には雨の趣がある。それは十分に承知していたはずだが、結果的にそれほど多く雨天にカメラを持ち出すことはなかった。写真を撮り、あらためて思うのは、雨の、しかも夜が面白いということ。僕の中のイメージを構成し表現できる技術力があればと思う。
追記:このブログはFlickrに投稿した写真のコメントを中心に構成しているが、時々はFlickr投稿写真以外も載せようと思う。タイトル部分に「#」が付くのがそれに該当する。ちなみに「*」の場合は、僕以外の方が撮られた写真となる。
日本の文化は何かと問われれば、僕は東京タワーだと答える。この構造物に結実した姿はまごうこともない一つの戦後であり、新たな日本の近代の落し子でもある。「日本文化」について僕は否定的な態度を持つが、それは有史以来の連続とした姿をそこに見せるからである。文化そのものを否定しているつもりはない。ただ「文化」を語る際には、それが近代以降に誕生した言説であるがゆえに、「人種」「民族」「国家」と複雑に絡まり、特に「人種主義」の再生産に加担しないよう、慎重に言葉を選んで話さなければならない、と僕は思っている。
東京タワー公式ページには創業者前田久吉の心情を以下のように書いている。「科学技術が伸展した現代では、300メートルの塔をたてるくらい、あえて至難の業でもあるまいと考えた。やれば必ずできる、と私は膝をうつ思いだった。つまり私の東京タワー建設に対しての自信と決意は、京都東寺の五重塔からあたえられた、ともいえる。」
京都東寺の五重塔は現存する木造建築の中で最長の塔である。東京タワー建築の背景に東寺五重塔が入り込むことに僕は不自然さを感じるし、「東京タワー建設に対しての自信と決意」が何故東寺五重塔から得られるのかもわからない。ただそこには敗戦国日本の復興と国民の自信喪失からの回復が、高さを追求するだけでなく、維新を遡る歴史に求める心情が見え隠れするのである。仏教建築の五重塔はもともと釈迦の舎利を納める場所である。つまりはお墓なのである。よってその意思は地下への指向性にあり、決して高みへの意思ではない。五重塔に高みへの指向を見るのは近代の思想でもある。
「どうせつくるなら世界一を……。エッフェル塔 (320m)をしのぐものでなければ意味がない」
まず東京タワーに求めたのは高さである。それはモノづくりから自信を回復してきたこの国にとって、建築途中を目で見えることで具体的な自信回復の姿となったと僕は思う。そして具体的な数値として、エッフェル塔の高さが与えられる。「エッフェル塔をしのぐものでなければ意味がない」、その言葉は、東寺五重塔から自信と決意を得られたとの言葉よりもリアリティを持って僕には受け取ることができる。それはエッフェル塔が当時自立鉄筋塔で世界一の高さを誇っていたことだけではない。何よりそれはドイツに占領されたとしても、戦勝国の一員でもあるフランスの、しかも欧州を代表する古都パリを表象する建造物である。さらに東京タワーのデザインはエッフェル塔に似ている。エッフェル塔よりも高い「エッフェル塔に似た塔」を敗戦国の首都東京に建築する、その意味を思う。
「東京タワーがエッフェル塔との対比においていかにも東京とパリという二つの都市の関係を、ひいては日本とフランスないし西欧との関係を、表象し象徴していることだ。具体的には、九割の模倣と一割の臆病な逸脱。」
(池澤夏樹「読書癖4」より)
高みからの展望は都市を一つの自然風景にする。眼下にある建築物に、通りに、家々に、人の生活感は薄まる。地上における感覚とは異なる感覚、さらにそれは夜景によって増幅する。映画化された江國香織氏の小説「Tokyo Tower」は、21歳の透と41歳の詩史、21歳の耕二と35歳の喜美子という二組の純愛を描いていると聞く、実は小説も映画もどちらも知らない僕が言うことではないが、江國香織氏の題名の巧みさに、この物語の内容がそれを知らない僕にでさえ伝わる。
この写真は前記事の方の影響を受けて僕が撮った写真である。力ではなく脆さを出したいと思った。でも未だに従前からの僕の中にある東京タワーのイメージを崩せずにいる。
僕は自分のオリジナリティというものにはあまり拘らないが、人のは大事にしたいと思う。それにこの写真はあくまで真似であるのも認める。何を真似たかと言えば、彼の見方である。でも模倣することにより、そこに自分の視点も加わり、変質して新たな表現が作り出されると僕は信じる。例えばクラシック演奏家は繰り返しの練習の中から自分の世界を構築していったように。ただこの考え方は別の問題も含んでいる。そのことも含め徐々に考えていきたい。
この写真は僕の写真ではないが、僕に新たな東京タワーの視点を与えてくれた写真である。この写真の現場が何処か知りたくて、夜、東京タワーに行ったことがある。そこは思った以上に普通の場所だった。そして僕は同じ場所で、出来るだけこの作品とは違う様に何枚か写真を撮った。
東京タワーには殆ど行かない。といって嫌いな場所かと問われれば、決してそういうわけでもない。ただ僕のイメージの中にある東京タワーは間近に見るタワーではなく、ビルの隙間からかろうじて見える姿なのであり、なだらかな曲線が尖端に集中するデザインは空に向かう強い意志を感じるが、それは同時に幼い頃の思い出と共に懐古的な感傷も伴うものであった。しかしこの写真の東京タワーには、僕の懐古的なイメージは微塵もない。むき出しになり交差する鉄筋、オレンジ色の光の陰影、それらから受ける印象はあくまで現代的なものだ。そこにあるのは力の誇示と権力、と言えば大袈裟だろうか。
僕の写真でない一枚をここに掲載したのは、オリジナルへの敬意に他ならない。それはありふれた場所からの視点であったが、その場所への到達は僕には出来なかった。この一枚は視点を変更することにより、東京タワーの現実的な姿を新たに見せてくれた。そういう意味でも印象的な一枚になった。
今後は僕の写真だけでなくFlickrで気に入った写真も掲載するようにしたい。それを見る僕の印象を綴ることも、自分の写真(視点)から脱却する点で面白いと思う。


