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ハーレーの中では、OHV(オーバヘッドバルブ)2気筒として2世代目のエンジンである。
写真のハーレーは通称「ヨンパチ」と呼ばれている。パンヘッドは1948年に登場したが、その48年の1年間だけフロントフォークサスペンションがスプリンガーフォークとなっている。リジッドフレーム(リアサスペンションがなく、振動はシートのスプリングで吸収する)とあわせて、独特の雰囲気を醸しだし、オールドハーレーファンには垂涎もののバイクとなる。オールドハーレの中では別格とも言える存在となっている。
近所のハーレーショップで初めて「ヨンパチ」を見た。店の方に聞いてみるとレストアに一年間かけたそうである。おそるおそる価格を聞いてみると300万円以上はするとのこと。で、写真を撮ることで満足した。
後日行ってみると、既にこのバイクは売れていて、購入者と思われる方と店の方がエンジン周りを確認しあっていた。その時に初めてエンジン音を聞いたが、フィッシュテールのマフラーからは、とても力強く重厚な音を発していた。
連休中に急に海の写真を撮りたくなった。その思いは突然に僕の中に沸き上がった。
その時、近くの公園の様子でも撮りに行こうと僕は表に出たばかりであった。
空は青く、風は心地よい。僕は交差点で、公園を目の前にして真っ青な空を見上げた。
空の青さから海の青さを連想したわけでもない、甘い花の香りから潮風が恋しくなったわけでもない。
ただ、どうしようもなく僕は、今日これから海辺に立って海風に当たるプランを素敵に思ったし、それを実行したいと思った。
そして僕は海に向かった、というわけだ。
浜辺以上に、海ではウィンドサーフィンを楽しむ人たちがいて、浜辺から見ると、それらの帆の色の鮮やかさが、海の色、空の色に映えてとても美しい。
海風は強く、上空ではカラスと海鳥が凧のように漂っている。
沢山の写真を撮った、でもそれらは写すと同時に、結果として良い写真でもないのがすぐに伝わる。
いつもの写真サイト(Flickr)に投稿しようとは思えない一連の写真。
写ったものは、鎌倉の海だけではない、僕の気持ちもどうしようもなく顕れている。
僕はカメラの液晶で絵を確認しながらそう思う。
しばらくして、 僕は海の写真を撮るのをやめる。おそらく計画のどこかで僕は間違ったのだ。
僕はこのような写真を撮りたいと願ったわけではない。
でも今日は、現在の僕は、こんな写真しか撮れない。
それは構図とか、露光とか、そういった技術的な問題ではない。
どうしようもなく僕の目は、周りの風景に写真を見つけてしまうのだ。
世界が写真に満ちあふれているのであれば、写真を撮る意味などどこにあろうか。
久しぶりの海だった。それはそれで楽しい思い出ではある。
ただその思い出は、これら一連の写真によってしか喚起されない記憶に成り果てることも間違いない。
僕は海の写真を撮りにここまで来て、そして失敗したというわけだ。
しばらく浜辺に坐り、ただ海を眺め続けた。
遠くで子どもの歓声か聞こえる。そして同時に母親の笑い声も。
幾分幸せな気持ちになる。
三浦半島の山間を抜けて僕は帰った。
所々に小さな畑があり、そこには色とりどりの小さな花が咲いていた。
空はどこまでも青い。雲は遠くの憧れのように、ゆっくりと流れていく。
道が二つに分かれている。僕はまっすぐを選んだ。
風が一段と強く吹いた。
この状態に入ると、VOX以外も全く書けなくなる。その代わり本は良く読むようになる。そして写真も撮る。面白いことに写真の撮り方も、アウトプット指向ではなく、変な言い方をすれば本を読むような感じで写真を撮る。つまり自分の中に風景を取り込むという感触に近い。写真論によっては、写真とは思考に近い行為だと認識する方もいる。でも僕の場合、写真を撮る行為と思考の活動とは若干違う。といっても、撮るという行為は思考と似ているとは思う。
話は変わるが、僕は写真を撮る時、撮る対象が猫の場合が最も現像処理(RAWからJPEG変換)に気を遣う。猫を捕る事は、何かしら僕にとっては特別なことなのかもしれない。でも最近はとんと野良猫を見かけなくなった。時期的に言えば、繁殖の時期だというのに、街で見かける猫の数は少ない。
標準キットのレンズしか持っていない僕にとって猫を捕るのは至難のことだ。まずは近くに寄らなければならない。でも大概の野良猫は警戒心が強く(警戒心が強い方が良いと思う)、ある一定の距離以上は近寄らせてもくれない。そこで僕は「マタタビ」の粉末を常備している。でも不思議なことに、猫と出会う時は、その粉末を忘れて持っていない時が多い。
猫言葉を話すことが出来たら良いのにと思う。猫言葉で「写真を撮るだけだよ」と伝えるのだ。英語とかを覚えるよりも猫語を覚えたい。犬笛があるのだから猫笛もあって良いのではないか、等とも思う。でも見たことも聞いたこともない。
ただ、猫語を覚えると、猫たちの会話を知ることになり、逆に彼らが人間のことをどう語っているのかを知ることにもなる。それを聞くのも何か嫌な感じがする。
とまぁ、こんな感じで思いつくまま、今後もVOX以外の記事で書いていこうかと思っている。
そうそう、twitterの日本語処理がとてもよくなった。こちらは短い独り言(もしくはつぶやき)となるが、これは案外楽しい。失語症の時期には、もしかすれば丁度良いリハビリの道具なのかも知れない。もしtwitterをやられている方がいらっしゃれば、気軽にaddして欲しい。様々な人のつぶやきを聞くのも楽しいし面白い。
今年もサクラの季節が訪れた。昨年はあれほど熱中したにも関わらず、今年はサクラに対し一歩引いて冷めた眼差しで見つめている僕がいる。逆に言えば、昨年のサクラへの熱中が特別だったのかもしれない。
近所のサクラの名所を歩く。昨年と変わらず素晴らしい景観だ。でも昨年のような、心のそこから湧き上がるような郷愁感は訪れることがなかった。写真をとっても、換わり映えのしない姿に、おそらくこの場所で撮っても、日本でも名高いサクラの名所で撮ったとしても、同じ姿を僕に見せてくれる、そんなことしか感じられない。どこで撮っても同じ景観、一種の驚きではあるが、それが逆に今の僕にはとても痛い。
ここでいうサクラとはソメイヨシノのことである。無論、日本の銘木といわれるサクラは、殆どがソメイヨシノではないことは知っている。ソメイヨシノは銘木といわれる様になるほどの長い期間を生きることはできない。弘前城にあるソメイヨシノが記録上においては一番の高齢らしいが、それでも100年くらいではないだろうか。つまりはソメイヨシノの寿命は、人間の寿命とたいしてかわらない。仮に僕が死んだとしても、世界は変わらずに残り続ける、それでも今を盛りに花を咲かせているソメイヨシノはおそらく残らない。故に、それらが造りだしてきた景色も短期間で変わっていく。別面で見れば、ソメイヨシノが作り出す景観は、変化を繰り返してきた日本の姿を現している。
だからなんだ、と言われるようなことを僕は語っている。おそらく僕は今年のソメイヨシノを眺めながら、昨年のソメイヨシノを考えているのだ。写真を何枚か撮る。でもそれらの写真は少しも気に入ることはない。妙に感傷的なサクラの写真は、今年の僕には馴染めない。でも今の僕にはその嫌いな感傷的な写真しか撮れない。そしてそのギャップの大きさに我ながら驚きながらも、昨年の気持ちを取り戻そうと、僕はあがいているのだ。
公園を歩く、サクラの木の下では大勢の人たちが集まり、楽しそうに酒を酌み交わし語り合っている。それらを見て僕は不思議な気持ちになる。思い起こしてみれば、僕は桜の木の下で酒を酌み交わしたことが少ないのに気がつく。最後に友と桜の木の下で酒を酌み交わしたのは何年前のことだったんだろう。語り、笑い、そしてまた語る。たわいのない語りの中に、その人が本当に言いたいことが隠されている。きっと「桜の木の下で」とは「神の下で」の暗喩に違いない。酒を酌み交わし談笑する人たちを見て、僕はそんなことを思う。
夜の公園に再び出向いた。既に人影は殆ど無く、風は強い。枝ごと風で揺れる。揺れるごとに、街灯に反射し、闇夜にも係わらず何か大きな一つの生き物のように感じさせる。湿気の多い風だ、今夜は雨になるかも知れない。ベンチに座りその様を見ていると、昼間の不思議な感覚がよみがえる。この国に住む多くの人にとってサクラは特別な存在であり、それは僕にとっても変わりはない。でもサクラの一生は短い。だからこの特別な気持ちが、明日には一変することもあり得る。昨年、僕はサクラに熱中しながらも、サクラを擬人化すまいと心に決めた。その気持ちが少しだけ揺らぐ。明日、日曜日が穏やかな日であることを、僕は願う。月の写真を見せてください。
提案:nobukiさん
氷川丸とお月様。僕の持っているレンズではこれがやっと。三脚を使ったことがないので、もう何枚もブレにブレた。
でも写真のブレもボケに近い味があるし、それも多くの現実世界の(人間には見ることができない現実世界の)一部だと思う。ただ自分の中では、やはりブレない写真、もしくは人間の目で見たブレない現実世界を求める傾向があるのも事実だ。おそらく「私」自体がブレたくないという思いが強いのだろう。だからブレずに撮れた写真を見ると安心するのだと思う。
だからかブレてボケまくりの写真も時折撮りたい衝動に駆られる。
なぜか時折フィルムで無性に写真を撮りたくなる。この気持ちは、実は僕にとっては自己矛盾な行為なのだ。なぜかといえば、デジタルカメラを使うということは、「写真」というものとはカメラだけのものではなく、むしろ機械及び媒体に特定できないもの、という認識を持つということ、に近いと思うからだ。
さらにデジタルカメラでの撮影は、現像処理もしくは様々なレタッチソフトで、撮影者のイメージを概ね現すことが可能だとも思っている。つまりデジタルカメラと、イメージの具象化に必要な道具(ソフト・ハード)を持てば、フィルム写真と同様の結果を得られるとさえ思っている。
だから時折のこの気持ちが不思議でしょうがない。しかもモノクロフィルムで撮りたくなるこの気持ち。どこかにフィルムに拘る気持ちがあるに違いない。もしくはデジタルとフィルムでは、僕の感性の中で何かが違うのかもしれない。言い放してしまえば、単なる感傷的で懐古趣味的な感覚なのかもしれない。でもまぁその流れに時折体をゆだねるのも悪くはない。
胸に「タウンページ」のロゴが入った黄色いコートを一様にはおり、こちらに向かって歩いてくる姿は、面白さを通り過ぎて、異様でもありました。総勢100名はいると思いました。
タウンページの認知度を上げるプロモだと思うのですが、確かに効果がありました。例えば僕のように写真を撮っている方も多く、「え?こんなにもカメラを日常持ち歩いている方が多いのか!」と自分のことを忘れて、驚いてしまったくらいです。
撮った写真は、僕がしているように、ネタとしてネット上に流通させていくことになるのですよね。それを考えれば、この強度を増した反復のプロモは、お金をかけた分の効果はあるのかも知れないと、素人ながらに思えました。
といっても、その効果をどのように測定するのかはしりませんが・・・